太閤殿下の誕生

織田軍団は如何に形成されたか
当時の尾張西部は、木曽川の流れが、網の目のように流れ、増水を起こすたびに、氾濫を繰りかえしていた、こんな川があばれまくるデルタ地域では、安定した農業が行えず、土地そのものは 肥沃でも、収穫は不安定だったようです。尾張といえば 豊かな穀倉地域のイメージがあるかもしれませんが、そうなったのは、江戸時代からのようです。 信秀が 他の尾張の 国人領主より 一歩先に出られたのも、熱田、津島の神社と関係をはやくもて、領域に組み込めたからのようで、当時は港もあり、交通の要地でありました。そこでは砂鉄や鋳物砂が取れて 産業も盛んでした。信長の旗が銭であることを思い出して欲しい。いくつもの水路がある広大なデルタで たとえば、綿などをつくっているとすれば揚子江流域に、よそ者がやってきたとする(秀吉のご先祖さまにも よそ者説がある、父かたは 叡山の毛坊主、河内の鍛冶屋、母方は 美濃の鍛冶屋)というのはどうか?小さな街の金融業者(たとえば 寺なんか どうだろうか?時宗の寺とか)から 金を借りて、綿花の種子を購入して それを植える。最初はうまくいかない 失敗してしまうものもできるだが 成功するものもできる(秀吉の妻のねねの家系では 杉原家は連尺商人 浅野家は金持ち)だ。物流のさかんになれば 同業者組織がうまれ 武装も必要になる(信長の家臣団は商人の街 津島衆主体に構成されていた) 清和源氏の始めの多田庄は 鉱山から発展したものからもあるように、従来の武士についての認識は兵農にこだわりすぎです。戦国大名は ぶどうの房、自衛団が領主化し、それがまとまり 尾張の場合は、今川を追い落として、ひとつの象徴になれた 織田家を国主に押し上げたとみるべきでその織田家を土台に秀吉がのしあがってきたとみるべきでしょうか? 信長の親爺が、今川の跡目相続のドサクサに尾張を当時 占領していた今川軍を追い払い、津島を含めた 尾張の中心地を押さえ、斯波家家臣団を把握しました。これを信長がそのまま引き継ぐことができれば よかったのですが跡目相続で内部分裂が置き、斎藤道三の支援で なんとかそれを乗り越えた分けですが、信長は 家臣団の再編を図り、秀吉を始めとする
新規の雇用を図り、従来の土豪勢力ではない形の家臣団を育てていったのです。それがいわゆる兵農分離というものです。

太閤殿下の係累のことなど
岡崎のすぐ近くの橋の上では 蜂須賀正勝と 秀吉が出会うわけですが。橋というのはまた面白い。いまでこぞ創作とされますが、橋は此世と異界の境をなす場所であり,ここでは妖怪や幽霊が出現するなどさまざまな怪異がおこるほか,あの世(冥界)という見えざる世界が露頭し,未来の出来事を垣間見ることができるところでありまして、外敵や疫病を防ぐ重要な境界地点と考えられ,境の神の祭祀の場であったと考えられます。そんな場所で 霊的な力があると考えられていた針を持っていた 針売りの秀吉が寝ていたというのもまた面白いものですが。これが一寸法師の物語に多少 かぶっているのも また一興です。蜂須賀党は岡崎にいっていなかったというのが通説ですが、蜂須賀党の根拠地のすぐ近くには 桶屋で知られる 福島正則の地元になります。針を扱っていたのは、連尺商人たちですが、連尺商人たちは、かなりの遠距離を商品をたずさえつつ、行商にまわった人たちで、中世になると武装した隊商をくんで 各地をめぐっていたそうです。夜盗ではなく そんな時代の反映なんかもしれません。
松田修氏は、秀吉が放浪していたとされる土地に、水辺への誘いを受けているということを重視し、愛護の若との共通性を超えて、幼い秀吉の放浪が貴種離の系譜上に位置していることを注目し、秀吉(猿)が、川のほとりにたたずんでいる姿に注目しているが、これがあるなら 橋の上で出会うということは 義経と弁慶の話をある程度 踏まえていることにしても問題はないだろうかと思しますが、そこで 石川五右衛門の生まれとされる浜松が 秀吉の放浪する土地にはいっていること、後年の同じ地域の日本左衛門がでてくることにひっかけ 武士だなんだ、松平阿波だなんていっても、昔はおれらと同じだぜという気持ちが 作者をして 小六を夜盗にしたのかなという気がします。当然 作者はあとで 罰をうけたようですが。



秀吉の家系を決めたのは
これは、戦国史の大家 桑田(茶器鑑定でいくら儲けた)忠親氏の師匠
の渡辺センセイという方の 豊太閤の私的生活という本です。
だいたいの小説も、これを幼年期はベースにして書いてるので、太閤伝説というのは
この方が創作したといっても過言ではないとさえいえます。

秀吉の親爺はヤエモン 継父は、チクアミ 家業は農民の核家族で 立身出世の物語というように
なにかしろの政治的意図により創作されたのでしょう

なにしろ、この渡辺先生は、墨俣築城の創作伝説に大きな役割を果したり、蜂須賀家から先祖が夜盗といわれ
困りますと泣きつかれ、伝記を作成したこともある いわゆる?の方です。

ただ 最近は 百姓といっても 農民とは限らないし、秀吉の周りの系譜は、とても農民とはおもえない
また 秀吉の物語には、愛護の若という説教節の影響を受けている、また秀吉の政策運営はとても農民
の感覚ではないなどの 見直しが入り、80年代以降から始まりつつある、民俗学と歴史学の融合がそれに拍車
をかけています。

当然 桑田先生は、この風潮がお気にめさなかったようで、民俗学と歴史学?とお冠だったようですが
当然 桑田先生も、秀吉の戸籍について いろいろ発表はされていますが。裏の意味までみないと何の意味
があるのかとさえ感じます。

また秀吉の母には、知られていない子供がいたという噺ですが、まず女系家族と考え、また秀吉の出世に彼女の系譜が相当
貢献していたこと、2人の父の存在が薄いこと。大政所がこぶつきなのに、次の男ができたこと(意外に彼女が美人だったかも)
当時は女性の地位が意外に高く、また乱婚、雑婚だった点から、秀吉に含む意のある宣教師の報告であっても、かならずしも
ありえない噺ではないと私は思いますが。

民俗学的に考えるのは すべて正しいとはおもえませんが、歴史学(史実)を元に考えるというのも、在る意味 何かの意図にのるだけ
の危険性を感じるのは 私だけでしょうか?






稗吉の誕生
昔、昔 お爺さんは 山に芝刈りに行きましたとありますが、秀吉の頃に、日本にきていた 宣教師たちも、彼が、若い頃は山で 芝刈りをしていたという記録に書き残しております。かの八切止夫は これを表して、端柴として、親が 稗でもくっていけますようにと 稗吉とつけたと表しております。
 
みずのみ百姓
よくいわれるみずのみという言葉ですが、本当の奴隷でしたら、家族が持てるはずがないのが、この時代のことでして、これは 網野センセイいうところの 農民ということではなく、商人的な要素の強い方々だったと 考えられるのではないかと 私はおもいます。

桃太郎の母
おばあさんは川に洗濯にということで 桃太郎の物語は 佳境を迎えますが、このおばあさんという言葉にしても、当時の寿命から考えて、それほどの年ではないという説もあり、またも桃太郎の話の変形パターンでは、河で洗濯をしていた娘を勇者が見初めてというパターンもあります。桃は精子 着れは卵子で 河で桃をみつけ そして妊娠ということで 桃太郎の変形パターンでは そんな噺もあります。また 洗濯女という言葉には いわゆる飯盛り女と同じ意味もあるようであり いわく だれの子か わからないのが 桃太郎ということになります。

秀吉の母
大政所さまですが、秀吉の系譜を精密に検討してみますと、やはり秀吉の母の系譜が とても大きな役割を果たしていたというのが云えるようです。いまでこそ きちんときまったような秀吉の系譜ですが 明治の頃に 無理やり 決められたようなところがあり、その弟子筋にあたる方も近年 なくなられ ある意味 縛りが取れたようになっております。そもそも、こぶつきで 何人も 男を取り替えたという彼女の行動から考えて(系譜に載っている意外でも 彼女には子供がいたという記録もあります) ある意味 母系制、ある意味 乱婚に近い状態であったというぐぐつという言葉が思い浮かべますし、秀吉の指が6本あったという説(近親結婚の影響)からも、彼と彼女の系譜が 一種 特殊なものであったというのが窺い知れるように思えます。

さまざまな伝説の反映
竹中半兵衛が どう考えても 諸葛孔明ではないかとか、秀吉が劉備なら 加藤清正の 今に残る 肖像画は関羽に似すぎというじゃないかとか 愛護の若という 継子いじめの説教節が 秀吉の幼年から 少年期の時代の描写に反映されているとか 針をもって放浪の旅に出て 北政所と無理やり結婚してしまったところは どう考えても一寸法師じゃないかとか さまざまな 日本人好みの噺と かれの生涯はまざり会っているのです。そして 彼自身がのぞんだことか それとも周りが創作したか わかりませんが、やれ 太陽とか 足利将軍家の落しだね、天皇家とかとありますが、今に残るは ある意味 桃太郎伝説の 一変形のような かれの生涯でございます。

ハゲネズミというあだなも今に残しています。猿というのは 民俗学上は、下記のようなイメージがあるようです

http://www.kcn.ne.jp/~tkia/mjf/mjf-81.html

これから考えてみると、どうも猿というのは 昔の人にしてみると河童、水神、厩神という言葉に代表されるような こっけいなイメージとは 少し違うものを感じたように思いますが いかがなものでしょうか?秀吉という人間が猿に似ているだから こうだというよりも、秀吉の物語は、言葉に残されたものは、歴史というよりも 文学なのですから、当時の人の、まずイメージを知り、それから 歴史的に考えるほうが 価値があると思います。当然 秀吉だけではなく、他の人物についても どうようなことがいえるのではないかと思います。 それに 猿丸や猿田彦のようなイメージもあるのかもしれません

http://www.o-cha.net/japan/teacha/detail_j.asp?id=80

焼畑には 茶が生える

http://www.chikumeido.com/chasen/chasen.html

http://www.rc.kyushu-u.ac.jp/~hatt/sinanoisi.html

話題作になっていた黒須紀一郎『鉢屋秀吉』に話が及んだ。「秀吉に
興味はないですか」といわれたときは、先生と秀吉の組み合わせをちぐはぐに
も思ったほどだ。『鉢屋秀吉』は豊臣秀吉が被差別階層の出身(鉢屋、「鉢の
者」)であると主張する。その根拠は安国寺恵瓊書状なのだが、「秀吉さりとて
ハ(は)の者に候」(信長に較べ、秀吉はなかなかの人物だ)とある部分を、
この本は「秀吉さりとて、ハチの者に候」と、「ハ」を「八」に解して論を展
開している。先生は上向きかげんに少し右をむいて本当におかしそうに笑うこ
とがある。この時もそうだった。しかし「秀吉の妻ねね方の実家杉原氏は尾張
清須の連雀商人の出身だ」ともいわれた。これは急に七〇〇〇石取りの主にな
った秀吉が、家臣になる者がいないため、もし自分がこれから出世して石高が
増えても必ず七分の一を与えるという約束で杉原を召し抱えた、という有名な
一節にある言葉だ。しかし「連尺」(連雀)の意味にまでは気にとめる人はい
なかった。先生が『中世商人の世界』(一九九六)に詳しく述べられたように、
連雀商人はこの時代には差別された存在で、秀吉はその家から妻を迎えた。秀
吉自身が木綿針を売り、わらじを売った。これも賤視された職種という。秀吉
は百姓の小せがれではなく、賤民階層の出だった。すると秀吉像は一変する。
脱「賤」の典型になる。わたしはいつもそうであったように、先生の着眼点の
新鮮さにおどろき、いつものようにまもなく活字になるであろう、その論文の
完成を待ち遠しく思った。


http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/sugihara/fukutiya.htm

一方は連尺商人 一方は桓武平氏 どちらが正しいのか?

http://www.m-network.com/sengoku/sensake2.html
桶屋の市松のことなど

親爺の正信が、番匠(大工)か 桶屋というのは どちらも正しい。大工としての仕事がないときは 木屑をもらい、桶などをつくっていたのが実情で 木を切る場合にも、木を仕入れないといけない、また木を切るのは、いい刀が必要ということで、木地屋とも、刀鍛冶の縁にもつながる 大政所仲の妹を嫁にしたというのが 正しいところ。そのあと やれ どこどこの系図に結びつけたのだろうか。

昔も今も 職人さんいうのは けんかぱやく、また酒も呑む、正則が 秀吉のところに駆け込んだのも、けんかで人を危め、故郷というか 大工の仲間からはずされて、仕方なくの武家奉公といった面もあるのかもしれない。同様な逸話もあるようです。

ただ 秀吉が天下人になるに連れ、状況も変わり、大工仲間が支援してくれようになったのでしょうか?福島家の本姓は 星野というそうで、正則の家臣団には 星野という名前が多いのは そのためでしょうか?

http://shushen.hp.infoseek.co.jp/keijiban/kato-ki.htm
加藤清正の系譜


http://www1.harenet.ne.jp/~sugi/sugihara/
もともと 商人の家ではないかという気がいたします。

http://www2.harimaya.com/sengoku/html/aoki_2k.html
酒作りに転向ということですが

http://homepage3.nifty.com/emihana/zakki/zaki22.htm
歌舞伎役者も、、、、

織田家はその家臣団と 旧道三派で美濃を制圧していったわけで、従来の家臣団は本能寺の直前までに林、佐久間のように粛清されてしまうのです。秀吉の周辺にしても、たとえば、杉原氏などは、平氏の系図もあるようですが、連尺商人という伝承もあり、これは どちらかが偽物ですが、とある大名が あなたの先祖は?と聞かれた際に、適当なものをみつくろい中と話したこともあるように系図はあきらかにカッコつけでしょう。武士と商人に差があったように解釈されるかたが、かなりの大物の小説家にもおられようですが、商人でも行商に回らねばならない時代であったわけで、あまり差はなかったように思います
だったのではないか、ただ 豊かになれば 戦場などいかなくても住む、この時代は そんな時代だったのでしょうか?そんな時代に秀吉は、武家奉公を始めるわけですが、コソ泥をやって怪しまれたらしいようですが、アウトロー研究でも有名な 田村栄太郎の史料からみた秀吉の正体では、こうこれを評しています。江戸時代の足軽、中間など 草履取りも含んだが、いずれもバクチの常習犯であった。これも戦国時代になると、いっそうひどくとあり、秀吉もバクチをやっていたとしています。キリシタン大名という本では、蜂須賀正勝という山賊の仲間に入り、信長の軍隊のために捕らえられて、殺されそうになったとあるのが、信長の眼にとまり、あやうく助かったとあります。あまり評価はされないようですが。蜂須賀党の性格を捕らえなおし、信長の成功もあぶれ者たちの組織化ということになるので、一度 見直しをされるべきだと 思います。


















本願寺のことなど
本願寺教団の誕生

以前 奈良で行われたシルクロード博というイベントがあり、
一面に、飛天というテーマでの展示をみた際に、天使という概念は
比較的 普遍な概念だったのだろうなという印象を得たことがあります。

マニ教、ゾロアスター教 ネストリウス教と それぞれの文化の日本への渡来、また教徒たちの日本への渡来という概念を取り上げる人もいますが
さて どうなんでしょうか?

よく 秦人、ユダヤ人の渡来という人もいます、王朝という言葉を持ち出す方もいます、天皇という言葉も持ち出す方もいます。記紀によればという人もいます、人それぞれで解釈がちがいます。これは粉飾だ 歪曲だ 焼かれた 創作だという方もいます。果たして 本当でしょうか?

何人というなかれ われわれのご先祖さまです。隠れている?だれでもわかるように指摘してください。王朝?ただの集団 組織です。天皇?偉いさまです、われわれの身近な意識から説明できないのなら そんなものは歴史ではありません。

スターリン、レーニン、そしてロシア共産党、金日成 中国共産党 毛沢東 彼らが ほとんど マルクス主義の理論とは 無縁のところにいながら 革命の神になれたのも、ロジアにおいては もともと ロシア帝国の中にある 植民地の独立運動を利用し、第一次世界大戦に乗じて、ロシア帝国の崩壊により たまたま 生き残った ポリシャビキの統領がレーニン そして 先輩たちを蹴落として、その後を取るのが、スターリン
 そして歴史がそれを正当化し、いつまにか それがロシア革命という神話になっていった。

毛沢東は?馬賊や山賊の親方に 加わった 地方インテリが 徐々に、先輩たちを蹴落として、皇帝気分で作ったのが 今の中華人民共和国、金日成も バルチザンのトップにうまく成りすまし、ソ連、中国、国内派、南派を粛清して 自分達が 日本を追い出したと 神話を作る。

キリスト教はどうだろうか?ローマ帝国の奴隷対象の宗教で 何らかの理由で 処刑された前歴の良くわからない男に、ギリシャ神話に代表される たとえば バッカスの肖像がかぶさり、またヨーロッパでの布教に、異教を取り込む目的での、聖母マリア サンタクロースという概念が利用されたというのは どうだろうか?

http://search.yahoo.co.jp/bin/query?p=%a5%b5%a5%f3%a5%bf%a5%af%a5%ed%a1%bc%a5%b9+%b0%db%b6%b5&hc=0&hs=0

サンタクロースと異教との関連


親鸞は いなかったとは 系図の上での可笑しさや、怪しさ、また史料的に実在が確認できないということで 大正時代までささやかれたものですが、毛坊主考を読むと、親鸞の末裔たちで 念仏の系譜が すべてになるのではないかという疑問を持ちます。

さて猿石ですが マニ教だ ゾロアスター教の関連だという見方もあるが、特に異教的な面をみるのではなく、われわれとの連続性からこれについて考えてみるのはいかがだろうか?

あれはもともと天皇稜近くの水田から出てきたものが 現在地に置かれたもので、奴隷の収容所の目印という見方もあるが、生贄の埴輪のプロトタイプというのはいかがだろうか?

猿は河童であり 馬とも共通性があるというのが 民俗学でいわれるテーマであるが、たとえば、それが桃太郎に隠れている アミニズム(精霊信仰)であったり、母子信仰、また異形なるものへのあこがれ、おおいこ、若宮、八幡、王子信仰、お雛様、おしらさま そして まれびと(たとえば、サンタクロースにも取り込まれたような ナマハゲのような精霊)との関連をみるのは どうだろうか?そしてそれが 石神から 仏像につながるというのはいかがだろうか?

たとえば 岡田英弘氏は 日本の文化文明というのは 華僑が作り上げてきたものではないかという指摘を、日本史の誕生という本で 繰り広げているが、坂上田村麻呂が 蝦夷を退治し、そのあとに、寺が創建されたという伝承は さほど珍しいものではなく、寺に寄進された 奴隷の源は、蝦夷や 土蜘蛛という王朝から敵視されたものたちだったとおもわれる。

神が追われたのも、人が負われたからであり、仏さまの下に、神様(いろんな神様)が隠れているというのが 記紀により隠されたというのが この書物の本質だろう 思うがいかがなものであろうか?

聖徳太子の 別名のうまやどのみこという言葉も、うまやのかみの奴隷のみこというニュアンスに聞こえなかったか?また病人や 生まれの環境から考えて、そういうニュンスがなかったのか?私はそれをおもうのであります。

本願寺が 被差別者を かなりとりこんでいったさいに、聖徳太子を持ち込んでいったのも そういう理由があったのではないかと私はおもいますが?

さて 仏さまたちは 古代信仰とまざり それを支配しようとして、古代信仰の担い手(毛坊主、山法師)たちは、のしあがろうとして つながりはじめる。

人を葬るという概念と 経済的余裕ができ始め、寺というものができ始める。貨幣概念というのができはじめる、職人の集団ができはじめて、その集団を保証する 生き神さま または職能神が求められる、偽史が想像される、川の境目や 外れで 市ができはじめる、アジールが生まれはじめる。

中沢新一の本にいわく
仮面儀礼を生み出してきた本と野生の思考と貨幣経済の土台を作り出している思考とは、心のまったく同じ構造から生み出されている。民俗学と経済学とを結び付けている真実の環が、まさにここにあるといっていい、神話論理と資本論が同じ場所で語りだされ、お互いの理解が響き渡るような空間を作り出すことが不可能ではないことを、無縁 公界、楽は証明しようとしたんのである。 僕の叔父さん 網野善彦 中沢新一著より

太子講という集団があります。これも聖徳太子との関連がないとはいえませんが、クリスマスの時期にも近く(これはキリスト教が取り込んだ異教との関連もあるようですが)、太陽が死にそうな時期にやってくる 神様の信仰ということではないか?もとはおおなごということばが 大子となり それが聖徳太子になったと指摘する向きもあります。

だいしはもし 漢字を宛てるならば、大子と書くのが 正しいのであろうと思ひます。もとはおほごといって大きな子、すなわち長男という意味でありましたが、漢字の音で呼ぶようになってからは、だんだんに神と尊い方のお子様の他には使わぬことになり、それも後にはたいしといって ほとんど聖徳太子ばかりをさすようになってしまいました。

柳田國男 日本児童文学8 日本神話伝承集 昭和4年


仏教との関連 まれびとということ 貴人 賤しき人ということから
太子はあがめられ たとえば 最後は いつのまにか 末裔たちが 皇室の縁にもつながることになった親鸞たちに 担ぎ出され、聖人ということで、世の中で 崇拝され、敬愛されるようになったのが 聖徳太子の全容ではないかと思います。







本能寺の変についてのことなど
本能寺の変は酒呑童子の物語(いわゆる鬼退治)に似ているという方もいます。星野之宣の 宗像教授伝奇考という中に、
本能寺の変と 源頼光の鬼退治との共通性を取り上げている 漫画があります。酒呑童子も 魔王第六天 信長も魔王第六天と自称したようですが、光秀が、大江山を通り、桂川を渡るというところとか、光秀が自分のご先祖に源氏を見たとか、信長のある面での凶暴性、異常性とかかから、これを取り上げる人が多いようですが。そこから思うに信長が どうだから 光秀が という遺恨説の根拠が薄いのも、信長に痛めつけられた、浄土真宗や 天台宗の坊さんたちの 創作じゃないの?という気がします。

また事件の描写にしても どうもテレビや 小説では いろんな描写が本能寺の変では なされていますが、おおよそのところは、足利義教と 義輝の暗殺事件を元にしたものといっては 語弊があるかと思いますが、どうもそんな気がします。

鈴木真哉さんの鉄砲と日本人という本では
 凱旋してから一ヶ月半も経たないうち、信長は本能寺で死ぬ。通説では、信長主従は最後まで大奮戦して死んだということになっているが、これは信長公記などの記事をそのまま取り次いだもので、とても真実とは思えない。信長側の人数は100人足らずで、甲鎧の用意もなく、信長自身の持弓、持槍を除けば、打刀以外に何の武器も持っていなかった。これに対して明智勢は1万3000、戦闘員はその半分ぐらいだったとしても、彼らは完全武装の集団だった。これでは初めから勝負になるはずもないのである。斎藤利三の息子の伝えた話によると、本能寺の門を破って乱入した明智勢が鉄砲を打ちかけると、信長の近侍たちが あわてて飛び出してきたが、なにぶん帷子一枚の素肌であるから、20人ばかりも打ち倒されたとある。残りの者も同様に 弓鉄砲の的となってなすすべもなく撃ち殺されたにちがいないが、大田牛一にしてみればそう書くに忍びなくて、故主の奮戦憚を仕立て上げたのだろう。
としていますが、いかがでしょうか?

網野善彦氏 増補 無縁 公界 楽、奥野高広氏 織田信長という本の中ではこの中には明智の手勢から さるお坊さんが信長の遺体を引き取り 葬ったという記載を引用しています。なぜさらし首にされなかったかが疑問ですが。光秀がさらし首にしなかったらしいことが、信長の生存説をだしてしまうことになり、与力大名達を組織できずに、敗北してしまう要因になったように思います。

斎藤利三は 俗説では 光秀の家老とか 母親が光秀の親族ということに 俗説ではなっていますが、
本当は、室町幕府の重臣の蜷川家の家臣の家に 生まれたのが 彼の母になります。父親は斎藤ですが、これは道三の系列というより
また別の斎藤ではないかと言われています。

蜷川家が 幕府の家臣団の家であり、親族には、天竜寺の用人であった、大財閥の角倉家、それに 吉田、長岡、清原の家が縁を結んでいました。この彼が どうして 美濃まできて 道三の娘、それから美濃三人衆の娘と縁を結び 信長につかえるようになったのかは 私にはわかりませんが、北条早雲も伊勢氏の縁という説もあり、都から流れる武家がいろいろいたということなのかもしれません。

この利三の母親が別の夫ともうけた 娘が朝曾我部と縁を結び 信親が生まれます。なんで わざわざ 土佐までという感覚がありますが
南海へ継続する薩摩 そこまでの航路開拓のための 押さえとすれば 納得できる面もあり、だから日向守という任命はとても 興味深いです。

幕府 公家 宗教界、美濃衆に顔が利き  家老というより 明智軍団の中核という存在でもあり、在る意味 光秀以上です。

本能寺の変は酒呑童子の物語(いわゆる鬼退治)に似ているという方もいます。星野之宣の 宗像教授伝奇考という中に、
本能寺の変と 源頼光の鬼退治との共通性を取り上げている 漫画があります。酒呑童子も 魔王第六天 信長も魔王第六天と自称したようですが、光秀が、大江山を通り、桂川を渡るというところとか、光秀が自分のご先祖に源氏を見たとか、信長のある面での凶暴性、異常性とかかから、これを取り上げる人が多いようですが。そこから思うに信長が どうだから 光秀が という遺恨説の根拠が薄いのも、信長に痛めつけられた、浄土真宗や 天台宗の坊さんたちの 創作じゃないの?という気がします。

また事件の描写にしても どうもテレビや 小説では いろんな描写が本能寺の変では なされていますが、おおよそのところは、足利義教と 義輝の暗殺事件を元にしたものといっては 語弊があるかと思いますが、どうもそんな気がします。光秀の母親の殺害事件についても、いくつかの事件の組み合わせてであり、接待失敗についても、忠臣蔵の影響ではないか?とする見方もあります。

鈴木真哉さんの鉄砲と日本人という本では
 凱旋してから一ヶ月半も経たないうち、信長は本能寺で死ぬ。通説では、信長主従は最後まで大奮戦して死んだということになっているが、これは信長公記などの記事をそのまま取り次いだもので、とても真実とは思えない。信長側の人数は100人足らずで、甲鎧の用意もなく、信長自身の持弓、持槍を除けば、打刀以外に何の武器も持っていなかった。これに対して明智勢は1万3000、戦闘員はその半分ぐらいだったとしても、彼らは完全武装の集団だった。これでは初めから勝負になるはずもないのである。斎藤利三の息子の伝えた話によると、本能寺の門を破って乱入した明智勢が鉄砲を打ちかけると、信長の近侍たちが あわてて飛び出してきたが、なにぶん帷子一枚の素肌であるから、20人ばかりも打ち倒されたとある。残りの者も同様に 弓鉄砲の的となってなすすべもなく撃ち殺されたにちがいないが、大田牛一にしてみればそう書くに忍びなくて、故主の奮戦憚を仕立て上げたのだろう。
としていますが、いかがでしょうか?

網野善彦氏 増補 無縁 公界 楽、奥野高広氏 織田信長という本の中ではこの中には明智の手勢から さるお坊さんが信長の遺体を引き取り 葬ったという記載を引用しています。なぜさらし首にされなかったかが疑問ですが。 光秀がさらし首にしなかったらしいことが、信長の生存説をだしてしまうことになり、与力大名達を組織できずに、敗北してしまう要因になったように思いますし、現場に光秀がどういうわけか でてこなかった、または光秀ではなく、家臣団が主体で 家康退治にかこつけて 信長を退治してしまったのではないかと思います。

このあと 斎藤利三は 堅田に逃げます。少しいけば 三井寺、比叡山、また堅田自体も、本願寺と関係が深いところです。

このあと 斎藤利三の娘が なぜか 徳川家に取り立てれます。乳母という説ですが、末子が家康と年齢が離れすぎ
など 乳母とするには疑問が多く 本当は実母ではないかという見方があります。

また 春日局の登用と同時に 旧幕府関係者、本能寺変参加者が表に出てきたというのも 興味深いものがあります。



千利休のことなど

石川五右衛門は たくさんいた
実際のモデルになったのは、石川五右衛門頼明という実在の武将で、関が原のドサクサに権現さま暗殺に失敗したかたのです。

太閤も元を正せば、ごろつきからの成り上がりものということで、五右衛門が 太閤の知り合いだったらしいという芝居も 江戸時代には よくつくられたようです。

五右衛門が太閤暗殺にという話は、ほんとうにあったか どうかはわかりませんが、雑兵たちの戦場という本の中では、秀吉政権の殺伐とした事情を説明し、無数の五右衛門がいたのではないかと 述べております。

生まれはいろいろあるようですが、はっきり戦国時代から江戸時代の世相を 背景にしているけれど、創作と割り切れば、その背景は次のようになります。

大江山近辺
明智光秀、酒呑童子などの反映になります。

伊賀近辺
忍者といいたいところですが、戦国時代には 伊賀、伊勢、大和、紀伊の山者たちが 駆り出されて、あちらこちらの戦場で 血を流しました。

河内
本願寺一揆の反映、聖徳太子信仰の者たちが かの戦いでは血を流しました。

浜松
日本駄衛門などの 大泥棒か、権現さまの反映

芝居を精密に検討してみないと わかりませんが、柳田國男いわく 五は御霊につながるとあり、この面でもかんがえておきたい課題と思います。

山本勘助といえば、隻眼隻足の 武田信玄の軍師で知られた男でございますが、
民俗学的には、これは二つ 意味があるといわれ、ひとつが神に生贄にされる種族であること
さらに もうひとつが、産鉄に関係している部族であるということがあげられています。

勘助の故郷の愛知の牛久保は、鍛冶屋や鋳物師で有名なところであり、また製鉄に役立つ
高師小僧(渇鉄鉱)で有名なところです。勘助の体は それを象徴したもんではないかと思うのですが

秀吉の場合にも親爺のヤエモンが、体を痛めたこと、また秀吉の祖父に上げられる一人が、目医者だったということ。
(このへんはかなりこじつけくさいですが) また 周辺にも、鍛冶屋、刀鍛冶などが親戚におり
秀吉自身が 鍛冶屋の修行をしていたとか、鍛冶屋の本拠でもある、河内や近江で、かれが生まれたという
伝説も残っています。また 塩尻という本でも、秀吉の先祖は、近江から出ていて、叡山に関係があったという説を 
載せています。

愛知県自体にも、河内から流れてきた 鋳物師たちの痕跡があり、また砂鉄や、渇鉄鉱の産地でもあります。
また 秀吉が針を 世に出たという点については さらなる意味があるようですが、もともと鉄に関係していた
という見方、伝承があったからというのも、無理はないかと思います。

さて 秀吉については、非農民的な要素を掘り起こすのが ブームになっているようですが、
このような形で産鉄の部族という面で 彼を見直すことができないかと考えております。


切支丹のことなど
みちのくには「隠し念仏」というものがあります。簡単に言えば、江戸幕府に迎合した本願寺を、これを形骸して堕落したものとみなして、信仰を大事にする信徒たちが、自分たちみずから親鸞の教えに直結する信仰を密かに行ってきたものです。県立博物館には資料が展示されています。 いっぽう九州には「隠れ念仏」がありますが、これは、自分たちの領主や藩主に対する反抗です。例えば薩摩藩の門徒信者は、藩への年貢納税よりも、本願寺への納付を優先的にしようとしました。このため、藩は真宗禁制を厳しくしました。そこで門徒衆は隠れて信仰を守ろうとしたのが「隠れ念仏」です。ですから、本願寺からみると、みちのくの「隠し念仏」は異端で、九州の「隠れ念仏」は正統ということになります。 さて、みちのくにも隠れ切支丹はいました。隠れ切支丹とは、幕府の定めた宗門人別改めに対して、届け出の上では仏教徒を装いながら、実際はキリスト教の信仰を守り続けていた信者です。しかし、かれらの子孫は、隠れて信仰を行っているうちに、仏教との混合の結果、本来のキリスト教から離れていって、明治になってキリスト教信仰が認められても、もはやキリスト教徒にはもどってきませんでした。これは日本特有の多神教みたいなものです。神仏混淆とか本地垂迹説をお考えください。だいたい空海や最澄の仏教ですら、その密教には山伏信仰の影響があり、つまり神道的な要素があるのです。 さて私の読んだ本【及川吉四郎:みちのく殉教秘史、本の森(2005.1)】では著者が水沢の隠し念仏の大導師山崎杢左衛門は磔の刑にされたが(1754)、その理由は彼が隠れ切支丹であったからという説の真偽を、両方の説を調べながら述べています。つまり2つの説をあげて、それぞれの理由となる資料を分析したものです。・山崎杢左衛門は隠し念仏・山崎杢左衛門は隠れ切支丹そして結論は、やっぱり隠し念仏の大導師山崎杢左衛門は隠れ切支丹であったというものです。まあ100%いいきれないのですが、いろんな証拠を述べています。 本来は浄土真宗とキリスト教では全然違う宗教のはずですが、どちらもみちのくでは禁止されていて、だから隠れ切支丹が隠し念仏にすり寄っていって、いつしか「庇を貸して母屋を取られる」ように切支丹は仏教徒のようになってしまい、もはや子孫は切支丹という自覚を失ってしまったようです。 しばしば見られる子どもを抱く観音像は、聖母マリアを意味するもの。北上市岩崎公民館の木造天神像の冠には十字架が彫り込まれている。これらは浄土真宗とキリスト教の直接的な関係を示すものではないが、隠れ切支丹が神仏信仰にことよせて密かにキリスト教にまつわる大切なものを隠している例です。 隠し念仏では、生後一週間以内の赤ん坊が「オモトヅケ」を行う。これは五島などで潜伏時代の切支丹の間で行われた「お水受け」「御元附け」と同じである。さらに隠し念仏では、子どもが6,7歳のころに「オトリアゲ」の儀式を行う。これはキリスト教徒の洗礼に相当するのであろう。この儀式に不合格だった子どもは、石臼に載せられるという。実は石臼はキリストを象徴するものである。秋田藩主佐竹義宣の文書に「大ウス宗の者」という語句がある。大ウスはデウスを指すものと思われる。大臼 大宇須 提宇子→デウス(ポルトガル語で神のこと) 隠し念仏の秘儀を子どもの頃受けた人が、後にキリスト教に入信して自分の受けた隠し念仏の儀式とキリスト教の洗礼の儀式などがあまりに似ているのでそのことを指摘した人のことも、この本に書かれています。 ただし、すべての隠し念仏が隠れ切支丹ではないようです。クロスした隠し念仏があったということでしょう。

【及川吉四郎:みちのく殉教秘史、本の森(2005.1)】

妙見信仰(21:25:42 JST)

今回は、妙見様の信仰について少しお話ししてみます。妙見様は正確には妙見菩薩と申しまして、元来は支那で北極星を神として信仰してゐたものが、天竺から来た大乗仏教の信仰と重なつて菩薩に変身してしまつたと言ひます。ですので、正確には本来の仏教の菩薩ではないさうなんです。日本ではお寺の御本尊として妙見菩薩を頂いてゐる場合もあります。

神社でも妙見様の信仰があります。この場合、御祭神として、アメノミナカヌシ(天御中主)の神を祀つてゐます。アメノミナカヌシは、古事記の筆頭に出現する別天つ神の一柱で、造化三神の内の一柱ともされてゐます。一般的には天の中心にゐます神様としての信仰があります。武蔵国の西側に秩父神社がありますが、この社の御祭神としてアメノミナカヌシの神が祀られ、妙見菩薩のお札を求める事が出来ます。お札には亀の甲羅に乗つかつた妙見菩薩と小熊座の星の並びが描かれてゐます。正しく神仏習合ですね。

北半球の場合、夜空を見上げると小熊座の北極星が見えると思ひます。地球は北極星を中心に自転してゐますから、宇宙(天)の中心が北極星に在るやうに考へる事も出来ます。其処に「天の中心」と云ふ信仰が成立したのだと思はれます。神道の天の中心は、アメノミナカヌシです。仏教の天の中心は妙見菩薩です。東洋の北極星信仰はこんな感じだと思はれます。

扨、妙見様の信仰では基督教の影響も見逃す訳には参りません。戦国時代の切支丹信仰では、基督教の神様を神とか天主とか天帝とか呼びました。天主は天の中心にゐる唯一つの神様と云ふ意味ですが、切支丹禁止令が出た後、隠れ切支丹は信仰を隠す為に天の中心にゐる菩薩を天帝に見立てて信仰してゐたさうです。此処にも神仏習合が見られます。九州地域の妙見信仰には切支丹の天帝に対する信仰も含まれてゐると言はれる所以です。

参考迄に、北極星に纏はる希臘神話には、大熊座と小熊座が地平線に沈まない事実を元にした説話で、呪ひで熊にされた母子の悲しいお話があります。

簡単に妙見信仰について書いてみましたが、一口に妙見様と言つても、実は神道、仏教、基督教の三つの宗教に関聯を持つ複雑な信仰なのだと云ふ事が理解できたと思ひます。

一向一揆との関係だけど
浄土宗系の中で最も原理主義かつ強硬派が”一向宗”と”周りから言われた”宗徒なわけ
自分から”一向宗”を名乗る宗派は無いのよ。
一向一揆の衆とは、”あいつらは一向念仏で一揆したやつら”と言われた人々のことなわけ。
(一揆とは、心を一つにすること。一致団結)
つまり一向一揆と言うのは単にむしろ旗立てて戦うことじゃなく、一向念仏で一致団結する
こと。又はその団体ということになる。
一向一揆衆は神道思考な人からどう見える?”穢れ”た団体で”別火、別器、別食、別浴、別居床...”
が必要な隔離団体となるでしょ。一向一揆衆から見れば外の連中は付き合うと地獄落ち決定な救いがたい連中となる。

ここまでくれば後は一向一揆衆とその周りの人々との力関係で差別が決まる。
一向一揆衆が多数派ならば、少数派の神道思考な人は地獄落ち決定の被差別民になる。
これはいわゆる”穢多”とはちょっと違った差別になりそうだ
北陸の一部なんかはこれじゃないかな。

一向一揆衆が結構いて、かつある程度の少数派なら被差別民は一向宗門徒になる
大阪やその周りはこれだろう。石山本願寺は大阪にあったわけだしね。
あと長島の一揆も有名だし、その近くにもそうした地域はありそうだ。
北陸のうち一向宗徒少数なところも、そうした地域はありそうだ。
これが最も典型的な”穢多”だろうね。

一向宗門徒が非常に少数な場合は、ある地域に大規模に固まることは無いだろう
あるいは死を扱う職業者として、数の多いところから呼ばれることも有るだろうね。
でその周りには、死穢のタブーによる差別の壁ができるだろう。
そんなとこかな。ただくれぐれも言うけどこれは古代と中世の間の軋轢だ
現代では意味はありません。

187 :171 :02/04/12 16:59
相変わらず、書いてることがよくわかりません

>浄土宗系の中で最も原理主義かつ強硬派が”一向宗”と”周りから言われた”宗徒なわけ
>自分から”一向宗”を名乗る宗派は無いのよ。

中世に一向宗と呼ばれたのは浄土真宗だけではなく、山伏や琵琶法師などの民間の
宗教者も一向宗と呼ばれていました

>大阪やその周りはこれだろう。石山本願寺は大阪にあったわけだしね。
>あと長島の一揆も有名だし、その近くにもそうした地域はありそうだ。

一向宗とはまったく関係がない地域にも被差別部落はあります
薩摩では一向宗の布教が禁じられていましたが、被差別部落はあります

188 :天之御名無主 :02/04/12 19:49
>>187
>中世に一向宗と呼ばれたのは浄土真宗だけではなく、山伏や琵琶法師などの民間の
>宗教者も一向宗と呼ばれていました

知ってるなら話は早いね。浄土宗は天台系だし融通念仏宗も比叡山から起きている
それらと時宗その他のものがごっちゃになって”一向宗”と呼ばれちゃってる。
蓮如は自分達は”一向宗”じゃないって言ってるわけ。
一向一揆って言われるけど、じゃ”一向宗”って自分達で名乗った宗派って何?

”一向宗”って結局過激な浄土信仰全体を指す中世社会運動みたいなものかな。
でも浄土信仰はどれでも突き詰めれば、神道系の古代”死穢”とぶつかっちゃうのよ
だって死後の世界の世界観の相違でしょ。”死穢”とは絶対相容れないよ。
穢が多くて火を分ける必要があるタブーなんて日本でこれ以外ある?

>薩摩では一向宗の布教が禁じられていましたが
浄土信仰はあるよ。
それどころかこんなのまである
ttp://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho153.htm
面白いでしょ。隠れキリシタンや、隠れ不受不施派だけじゃなく
隠れ念仏まであるんだよね。なぜ隠したんだろうか
隠して何を守ろうとしたんだろうか。興味深いと思うね。

189 :天之御名無主 :02/04/12 19:53
>穢が多くて火を分ける必要があるタブーなんて日本でこれ以外ある?

出産の穢れ

190 :天之御名無主 :02/04/12 19:56
>面白いでしょ。隠れキリシタンや、隠れ不受不施派だけじゃなく
>隠れ念仏まであるんだよね。なぜ隠したんだろうか

一向宗が禁止されていたから

191 :天之御名無主 :02/04/12 20:07
>蓮如は自分達は”一向宗”じゃないって言ってるわけ。
>一向一揆って言われるけど、じゃ”一向宗”って自分達で名乗った宗派って何?

それにも関らず、門徒たちは自ら一向宗を名乗っていた

192 :天之御名無主 :02/04/14 03:42
歴史的に続く「同族洗脳」なんだよ、基本的な差別の本質はさ。
キーワードを打ち込めば解除されるが、調べ尽くされており、
時既に遅しか。
辿り着けぬ高みに「悪魔」がいるのさ,,。
彼らは伝統のために過去から犯し、俺を包囲したのさ。
つまらないことさ。



 

難波のことも夢のまた夢
浅井家の系図をみますと、とある貴族のご落胤から始まっているということになっておりますが、

それ以前からも 浅井の系図はあるということで、明らかにウソとなっております。系図を見極めるポイントのひとつとして まあまあの家なら 先祖を源氏にします。その次は平家 そうでもないと 藤原氏で ご落胤伝説は 作り以外の何物でもないことになります。

秀吉のご先祖さまも、東浅井郡の出のようですが、特殊部落の研究という本によりますと、東浅井郡には、当時 かなり大きな 鉢たたきの集団がいるので、浅井氏も、そこから出てきたのかなと思います。

物部氏の生き残りという説もありますが、天王寺では 彼らは奴隷になっていたわけで、そうしますと 浅井氏の出も推定されるわけです。

親爺の長政の肖像画からみますとかなり大柄な印象をうけます、淀の息子も かなり大きかったそうで、そうしますと かなり 大柄ということになります。

秀吉が どういうつもりで彼女を抱いたかは わかりませんが、彼女の浮気をうたがっている手紙もあり、また バレ噺の、吉田御殿も淀君の噺になっている場合もあり、当時から ある程度の噂になっていたのでしょうか?(君というのも遊女扱いということになります)

太閤殿下もそれを知っていたとすれば 露とおちという歌も、ずいぶんあわれな オオボラになりますが、ほんとのところはどうだったんでしょうか?

いわすとしれた太閤殿下の奥さんです。

本姓が木下か 杉原かは はっきりしませんが、織田家の縁につながる、木下氏から 秀吉の一族で 先に 信長に仕えていた 杉原家を仮親に 秀吉と結婚との説あり。

テレビや 小説では、円満な生活のようですが、彼女のお母さんがこの結婚を野合といっていたりとか、親戚の杉原家次が 恩賞の件で自殺したりとか、一族が 小牧長久手の戦で相当 捨て殺しにされたり また彼女の一族が 母方の一族に比べ、明らかに冷遇されたりなど 相当 不満だったようで、ですから、秀次や 秀頼も見殺しにされたのだと思います。

彼女の墓には 女の一念 それ 岩をも貫くと 以前はかかれていたそうで、複雑な思いがするばかりです。




参考文献
鉢屋秀吉
日本奴隷史事典


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